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区画整理を行った農地の畔や用水、道路際の草刈りをしています。

熟練を要する農作業は無理だけれど草刈りなら出来るだろうと、農家の方と話して始めた作業ですが、中々思うようにはいきません。「土を削るな」「石に刃を当てるな」と言われるとどうしても刃先が上がってしまい、刈残しが増えてしまいます。すると「刈り方が雑だ」と言われます。正直どうしてよいか分からなくなり「草刈りも出来ないのか」と、どん詰まってしまいました。
用水路の草刈り前_20200503 用水路の草刈り後_20200503
「駄目だ。辞めろ」と言われるまで兎に角続けようと、一人朝から夕方まで丸1日、草を刈りました。
石を拾った区画の道路側草刈り前_20200617 石を拾った区画の道路側草刈り後_20200617
行き帰りの回数は増えますが、狭い範囲をゆっくりと少しずつ刈りました。水路と車道の間に段差がある場所です(写真上)。先ず右水路際を10cmほど残して左段差の手前まで刈り、折り返しは段差を上から下に刈り、2巡目水路際を丁寧に刈り取った後、復路で道路から段差が始まる部分をゆっくりと刈り取りました。すると「良く刈れている。あれなら、任せられる」と言われ、漸く、少しばかりですが安堵しました。

たかが草刈りですが、未だ悩みは尽きません。そんなことで悩んでどうする?自分を笑うしかない日々が続いていますが、当面は場数を踏んで自分なりに精度を上げ「草刈りは出来ます」と、苦情無く仕事を請け負えるようになりたいと思っています。
2カ月前に刈った草がこんなに伸びて_20200701 用水路を残して草刈りをした後_20200701
草刈り、という“必要”に誰かが対処しなくてはいけないその誰かに、自分がなる。どうでもいいことかもしれませんが、それって、案外意義深いことではないかと。不要ではなく、あったらいいなでもなく、必要、なのですから。
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6月17日(水)梅雨の晴れ間に、ジャガイモ掘りをしました。

朝6時、お世話になっている農家から「芋掘りと草刈りをするので、スコップを持って来い」とのショートメールの着信がありました。これが目覚まし代わりとなり、起きて暫くうようよしてから家を出ました。

着くと「雨続きでイモが腐ってしまうから、小さくても全部掘れ」と言われ、直ぐ畑に向かいました。スコップで土を掘り返すと、土はかなり湿っています。雨が続けば、腐るには絶好の条件になりそうだな、と思いながら午前中3時間ほどイモ堀をしました。何度かミミズに逢いましたが、とても気持ちよさそうにしていました。
堀たイモ ミミズ 生き生きとして楽しそうでした(私が邪魔をしなければ良かったのですが)
ジャガイモ作りは5回目(=5年目)ですが、今回初めて、不耕起の畑で育てました。
不耕起の種イモ定植20200307 土結構固く芽欠き苦労しました20200501
私の選択ではなく、農家の方のチャレンジです。大豆を不耕起で栽培したところ発芽率が高かかったので、ジャガイモでも試してみたとの由。耕起すると水はけが良くなると言う方もあるようですが、雨量が多いと実際は水が地表に溜まりやすく、不耕起の方が地中に水が浸み込む一方で保水状態も良く、発芽率は不耕起の方が高いのだそうです。リスクの低減は最重要事項の一つですから、極めて自然な選択なのかもしれません。

水のリスクを避けることが出来るとともに、トラクターを使わないので化石燃料の使用も抑えることが出来るため、環境視点からも推奨される農法でしょう。ただし、耕起しないと土が固く、手ではなかなか掘れず、扱い難かったです。ジャガイモ自身も芽を出す時には、苦労していたようです(写真上右参照)。

農薬を使わないので、畝の構成にも工夫があります。ジャガイモ2畝の間には雑草や菜種などの畝があって、人から見てもジャガイモからしても害虫であるアブラムシを食べてくれる、正義の味方テントウムシの生育環境が用意されていました(下左写真:中2列がジャガイモ。その両翼は雑草の畝/下下右写真:収穫後の畑。土が露出している中2列の畝に、私のジャガイモが植えられていました。その両翼は雑草の畝です)。
中2列がジャガイモの畝、両隣が雑草の畝_芽欠き時のジャガイモ畑20200501 アブラムシを食べてくれる正義の味方テントウムシ
大豆は作柄も耕起と比べ遜色無かったそうですが、我が収穫は、男爵が昨年の8割ほどで、キタアカリが半分以下、でした。
収穫 収穫後の畝 中2列がジャガイモその両翼は雑草の畝
ジャガイモは気温が30℃を超えると発育しなくなってしまうため、6月前半に既に夏日のあった今年は仕方の無いことなのでしょう。しとしとと、冷ややかに大地を湿らせる雨であれば、例年通り後半月ほどの時間でより実り豊かになったのかもしれません。しかしこれが自然というもの。人の都合で押し通せないので、こちらが引くしかありません。

ともあれ、収穫は喜ばしいものです。
早速、調理しました。
イモ煮_20200618母作19撮影
シンプルなジャガイモだけの芋煮。あっさりとした美味しさを味わいました。

施肥は植え付け時に発酵鶏糞を一掴みのみで、追肥はしません。多肥は味を濃厚にしますが、生理障害や害虫発生の要因でもあります。


随分と前から日本では、農地の区画整理を行っています。1区画を大きくそして耕しやすいように矩形に揃え、就農者の基本単位の大規模化を図ってきました。規模のメリットによる効率化を進めることで、国際競争力を高めることがその目的のようです。

この土木工事は、区画ごとに広い道路を作る故か、土をどこかからか持ってきて農地の土壌も変えてしまうのだそうです。田は水耕なので稲作に大きな問題は無いようですが、畑は土が命なので、長い年月をかけて良い実りを齎すように作った豊かな土壌が破壊され、区画整理の後数年は、まともな作物を育てられないと聞きました。
区画整理で農地に作られた十字路241×181 石拾いした農地
そんな区画整理を終えた土地には、私の足の2倍くらいある大きな石から親指くらいの小さなものまで、たくさんの石がごろごろしていました。この石どもを農地から取り出す作業を、朝の9時から夕方5時まで、昼休憩1時間を挟んで7時間ほど、一人こつこつと孤独に拾っては捨て拾っては捨てました。

農家の方から「拾った石を籠に入れ、適当な量になったら黄色の収穫コンテナに移し、最後は山に捨てる」と指示を受けました。「山ってどこの山だろ。近くに山なんかあったっけ」と疑問に思いながらも聞き返さず、最後に確認すればよいだろうと作業をしていました。
コンテに集めた農地の石241×181
コンテナ3つが一杯になり、どうにも仕方が無いのでコンテナ周辺に置き始めた頃、トラクターで別作業をしていた農家の方がトラクターを止めて「お前は分かっているようで分かっていないね。話をちゃんと聞いているのか」「山に捨てるんだよ」と言われました。「区切りが付いたらどこの山に捨てるのか、聞こうと思っていました」と返したところ、農家の方が大笑いしながら「そこだよ」と十字路に積まれた石の、言われてみれば確かに“山”を指さしました。
石の山241×181
“山”と聞いて、こんもりと盛り上がった土の山を勝手にイメージして直ぐに確認しなかった自分の馬鹿さ加減に、呆れて笑う他ありませんでした。

作業した農地は3区画あり、最後の区画では軽トラに積んであったコンテナにわざわざ運ばず、直接“山”に捨てれば良かったのです。大きな石が結構あって、自らの不手際からかなりな重労働が追加されることになりました。農家の方の、元々無かったのかもしれませんが、信頼も失ってしまいました。
仕事の出来ないボケ老人
少しずつ農業に戻ろうと思っているのですが、先が思いやられます。


ウイルスを敵と見立てた「戦争」という虚構を持ち出さなければ問題に向き合えないのか、ずっと疑問に思っていました。そこで、コロナウイルスの影響について自分なりに考えを纏めたかったのですが、よく分からないので断念しました。あれこれと、ちっぽけな頭の中でぐるぐるすることを止め、あるがままを見ながら、暫し流れに流されて行こうと思います。

ただその前に、ちょっとだけ区切りを付けておこうと思います。ブログにして誰かにお読みいだくことではありませんが、恥ずかしく稚拙な今の私の考えを、逃げ隠れ出来ないように記録しておくために。

1 敵はいない
「戦争」「有事」という言葉が、乱用されているように感じます。多くの人命が奪われるという事実がある以上極度な緊張状態を強いられる訳ですが、コロナウイルスとは共存していかなくてはならないというのが識者の見解である以上、戦闘状況に置かれているという認識はちょっと違うかなと思います。「非常時だから」という掛け声が錦の御旗となって、非倫理的行動を安易に正当化しているように見受けられ、危惧を覚えます。

“コロナウイルスとの闘い”と呼ばれる状況は、コロナウイルスを原因とする不安を如何に解消するか、と言い換えることができるかもしれません。コロナのこちら側か向こう側かで線引きし、多くの人は自分がコロナの側に居ないならばそれでよしとし、鬱陶しくはありながらも日々生活しているように思います。「お前たちだな。ウイルス持ってきたのは」「感染したの。あっち行って。こっち来ないで」「私(たち)は生きている。生きるべきだ。誰かが死ぬが、それは私(たち)以外の誰かだ」という私たちの心情が、根源的な負の意識としてそこにあるような気がします。

ヨーロッパやアメリカでアジア人をコロナウイルス呼ばわりする差別や、日本におけるコロナウイルス感染者への排除攻撃や、感謝すべき医療従事者への不当な扱い、等はこうした心情の現れでは無いでしょうか。命を生きる“個体”としての真っ当な生理的反応なのかもしれませんが、他者を攻撃することで自己を安全地帯に置こうとすることは、状況を悪化させ、私たち皆の未来を不安定化させます。

攻撃する敵は、いない。
ただ、皆で打ち克つべき困難な状況があるだけ、だと思います。

2 気楽に隔離されよう
「緊急事態宣言」なるものが何だったのかよく分からないままに、何故PCR検査を日本では増やせないのか、日本の死者数が桁違いに少ない理由は何か、等の様々な疑問・課題が残されたまま、殆どの地域で「緊急事態宣言」は解除されました。残された首都圏と北海道でも、まもなく解除されるようです。

「ハンマーアンドダンス」なる戦略のダンス段階に移行するようですが、社会が大きな混乱に陥り、現状分析が明確に行われていない中で秩序を再構築していくことが容易でないことだけは、確かだと思います。むしろこれからが大変ではないか、と推測します。

社会を安定化させるために、先ずは“早期受診⇒陽性=隔離“という医療手順・体制を日常化することが急務かつ必須と考えます(インターパーク倉持呼吸器内科の倉持仁医師や山中伸弥京都大学iPS細胞研究所所長がこのような発言をされていると理解しています)。

「隔離」に極度の恐怖を感じる人が多いのかもしれませんが、気軽に「隔離」を受け入れられる社会であることが大事だと思っています。「コロナウイルス感染」を堀江貴文さんが言うように“風邪をひいた”程度の感覚で捉え、感染を隠蔽排除する風潮を是正すること。全ての人がコロナウイルス感染をただの病気と受け止め、早期発見・早期治療で重症化を極力防ぐことが、極めて重要になると思っています(風邪で隔離はしないだろう。変な話だと言われそうですが)。

3 分からないことを分からないとしておくこと
“コロナウイルスとの闘い”と言われる背景には、「科学と技術をもってすれば人間には解決できない問題は無い」といった驕りのような勘違いがあるように感じています。人間が全ての頂点にあって、世界をコントロール出来る、との思い込みがあるのではないかという疑念です。「闘い」という言葉を使うとき、この闘いに“勝つ”という含意があるでしょう。

科学とは、オープンな議論のことだと理解しています。どのような条件下で何が起きるかを記録し、それに基づいて因果関係を分析しようとする科学という方法論は戦争と深く関係を持ち、科学の側にある私たちは常に優位に立てるという感覚を生じさせるように思いますが、科学は万能では無く、その本質は支配や勝ち負けとは無縁だと思います。

勝たなきゃいけない、解を得なくてはいけない、という強迫観念から自由になり“出来ないことは出来ない”“分からないことは分からない”とする“留保(オープンに)”しておく精神的態度が重要だと思います。留保することは放棄や逃走ではなく、“ここまでは分かった。いや待て、本当か。もう一度見直そう。大丈夫そうだ。すると、ここから先は・・・”と常に“考え続ける”ことです。精神的に辛く厳しい状況に自らを置く、物凄くエネルギーが必要なので大変なことですが、今後ますます必要になって来るように思います。

全く関係ないことだと思いますが、解剖学者の養老孟司東大名誉教授の「ヒトゲノムの4割がウイルス由来だと報告を読んだことがある。その4割がどのような機能をもつか、ほとんどまったく不明である」との投稿があります(朝日新聞2020年5月12日(火))。

4 リスク
堀江貴文さんは、「解除したら、たがはもちろん緩みますよ。感染者数もまた再び増えるかもしれない。どうするのっていったら『一生このまま家から出ない様にしますか』それとも『ウイルスと共存する道を歩みますか』。これはウイルスと共存するしかないわけですよ、ここまで広まっちゃったもんだから」「政治が今、ものすごく安全側に振ってるんですけど、それをちょっとリスクを取る側に戻さないと、(自粛は)一生続きますよ。この状態を一生続けるという事は、人間が人間である事をやめる事と同義です」と言っています(ホリエモン、緊急事態宣言の延長に「一生家から出られませんよって話です」「ウイルスと共存するしかない」)。

「緊急事態宣言」とは、何だったのか。検証されるべき事だと思います。何がリスクで、どのようにマネージしたのか。その上で、今後どのようなリスクマネジメントを行うのか、明確にする必要があると思います。

5 社会的距離・身体的距離(social distancing/physical distancing)
端的に言って、フェースガードをして毎日居酒屋で飲みますか?ということだと思います。
私は、嫌ですね。飛沫を飛ばしながらの、古典的な人付き合い、をしたいと思います。

「彼らは、ちょっとした病気でよく生命を落とした。ほかのアマゾンの多くの部族と同じように風邪を臆病なくらい恐れていた‐彼らの前で咳をすると常に顔色が変わった‐が、ほかの部族と違って病気になると、治療を拒んでしまう。一度でも頭痛がしたり、出血したり、怪我をしただけで、死の支度を始める。薬を飲むことや治療を受けることを拒むのである。≪何のため?いつかは、死んでしまうのに≫これが彼らの言い分である」(バルガス=リョサ「密林の語り部」)

6 グローバリゼーション
否定的な議論が散見されますが、“グローバル(”globalized“という訳語を考えています)”な社会は前提で、地球規模で考えるモデルにそぐわない企ては、選択肢にならないと思っています。
コロナ危機が促す反グローバル化と国内回帰
コロナ禍が炙り出すグローバル社会の深刻な「無理・課題・リスク」

国際協調が求められる正にそのとき、米中が覇権争いをするなどしていてリーダー不在の世界に危惧を感じられる向きもあるようですが、そこに未来は無いと思います。

良い加減なことを言って笑われそうですが、基軸通貨や通貨主権といったことを含め、大きな構造変革が起きるような予感があります。

7 エッセンシャルワーカー(essential workers)
「必要」(≒essential)が、キーワードの一つとなるように思います。

どのような社会で暮らしたいか、という核になる青写真を持ち、そのために必要なことは何かを考え、未来を設計していくと、仕事とか労働の意味や内容が変わり、家事などのアンペイドワークを含め、エッセンシャルワークに人的資源が流れていくように思います。

8 テレワーク(teleworking/work from home)
会社に行かなくていい、ということでは無いと思っています。仕事の仕方が変わる、ということでしょう。平たく言えば、無駄が沢山有ったので省く。結果、職場の人の数は相当減ると推測します。必要なことは何かの見直しが徹底的に行われ、大量の失業が発生する可能性があるかもしれません。新たな機会がもたらされるかもしれませんが、少なくとも、多くの業務が無くなると思います。

コンピュータの世界でオンプレミスからクラウドに移行してきたように、自社とは本当にコア部分で十分だとの認識が一般的になり、外部リソースの活用を最大化する動きが加速するかもしれません。

事務所も本当に必要なのか、という議論が起こって来ていると思います。仕事量=社員数の減少とともに、職場スペースの減少が起こると思います。東京のど真ん中に立派なオフィスを構えていることは見栄であって、不必要なコストだという議論が起き、都市機能が変化し、田園への人口分散が促進されるかもしれません。都市の地価が下がる、という現象が起こるかもしれません。

9 格差社会
既にかなりな格差があります。循環しない通貨をやたらに増加し資産を偏在させているばかりでは、今後、格差は更に拡大するでしょう。

10 不要不急
コロナウイルスを契機として一連の社会変革が起こっていくと思いますが、AIとの立ち位置というか棲み分けというか、人間の領域とは何か、が問われるように思っています。そのとき、「効率」の追求と次元を異にする「不要不急」という概念が大きな意味を持つような予感がします。

タンポポ 淡紫の花
草花は、昨年と変わらず春を楽しんでいるのかもしれません。そうでないかもしれません。来年は、造成され家が建ち、そこで再び咲くことは出来ないかもしれないけれど、その時はその時のこと。彼らは、ただただ、静かに運命を引き受けているような気がします。
深紅の花3 青い五弁の花2
常に何者かに脅かされながら、其の者たちと共に生きていく(死んでいく)ことをどのように受け入れるか。コロナウイルス問題の本質は、ここにあるのではないかと思います。
春の草花のように静かにしかし毅然として、よりよい明日を迎える今日の努力をしていきたいと思います。
母の日に、子供とカステラを作りました。
子供は家内(母)に、私は母(祖母)に。
ハンドミキサーで素材を撹拌 フライパンにカステラの素を載せる
残念ながら、正直イマイチ。否、イマサンくらいだったでしょうか。
お菓子というよりは、カステラ味のパン、といった感じでした。
焼き上がったカステラ カステラ
「カステラパン」の一言に、母も家内も笑っていました。
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