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17日、同窓会。19日、恩師の墓参り。母校を想う数日を過ごしました。

今年は、恩師の7回忌。卒論を出し渋っていた私に「お前に、うろうろされると迷惑だ。白紙でいいから名前を書いて、さっさと出せ。通してやるから」と言われ、必死で抗議し、やっとのことで5年目在学の権利を勝ち取ったことを、懐かしく思い出します。

こんな不出来な奴に、卒業後、先生は優しかった。
毎度暗い顔してご自宅を訪ずれる私に、嫌な顔一つせず、お相手して下さった。

そして5年前。先生を偲ぶ会が大学で催された際、卒業生代表で何か言えと研究室から話を持ちかけられ、恥を知らない私は断りもせず、極めてプライベートな短い話をしました。1週間唸って、やっとのことで原稿を仕上げたのですが、その時初めて、学校に行ってよかったと思いました。ふざけた話ですが、大学の5年間は全くの無駄だとずっと思っていたのです。薄っすらとした記憶の中を懸命に先生の姿を探していたら、耳元を通り過ぎて行った先生の言葉が、実は、深く私の精神を形作っていたことに漸く気づきました。

以来、年に一度先生と話をするため、気の置けない仲間を誘い、大学の一室で数時間過ごしています。
今年は奥様のお伴をして、お墓まで行ってきました。久しぶりに奥様の笑顔に接することができて、とても楽しかった。

私にとって大学とは、先生とその周辺。極めて限定的なもので、そこに繋がらないものは一切存在しないも同然でした。しかし、先生が亡くなられて学校という広がりを考えるようになり、よく見知っていたはずの風景は、異なって見えてきました。

今年、幼稚園から大学まで、大学卒業年次で換算した同期卒業30年の同窓会の幹事を引き受け、17日(土)無事、終了しました。

たかが同窓会なのですが、それまで全く面識の無かった大勢の人達と半年、打ち合わせを重ね、アイデアを出し、意見をぶつけ合い、30年という時間の経過をタイムスリップするための、各々が持っていたおぼろげなイメージを式の次第に具体化していく創造的なプロジェクトに、暫しエネルギーを注ぎました。

当初は誰も考えていなかった、ピアノ演奏によるウエルカム・ドリンク、同期の野口久和バンドのポップなミニライブ、そして会場に入りきれない程人が集まり、大盛況だった二次会。

楽しかった。

多くの異論、異見を表立って口論することなく、呼吸を合わせながら纏め上げていった素敵な人たちとの出会い。母校という心象風景の、新しい1頁です。

昨日、ご先祖様の墓参りに行ってきました
伯父さんの育てた小豆ともち米で、伯母さ
んが作った、おはぎ。めちゃくちゃ、うまい。
磯部の伯母さんのおはぎ_20110925 3
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先週、ニューオータニで宮路さんのお別れの会が執り行われました。
そこで、私の知らなかった宮路さんに出会いました。

宮路さんは、こんなことを言っていたそうです。「ゲームは、進化している。技術が人の技量を超える時がくる。その時、何を作るかが、問われる」

残された時間があと僅かだと知った時、この言葉は、宮路さんの中でそれまでとは違う意味を持つようになったと、私は思います。

ゲームは“いつでもどこでも”リセット可能です。他者との関係もまた同じ、と考えていたように、私は宮路さんを見ていました。時間が貴重だと意識するようになった時、時間は決して繰り返すことはなく、他者は自分という絶対の回りをウロウロしている代替可能な駒でもない、と感じるようになったのではないかと思います。

自らの終焉が見えてくると、見慣れた物事が自ずと異なった風景として立ち現れてくるでしょう。ゲームって何だろう。遊んでくれている人たちに、メッセージは伝わったのか。そもそも、正しいメッセージが発信されているのか。疑うことのなかった本質的な問いを問う日々を、この1年送られたのではないかと勝手に想像しています。

「ゲームは愛だ」と宮路さんが言っていたと聞きました。

私は宮路さん自身からこの言葉を聞いたことはありません。お別れの会で初めて知ったのですが、技術に技術で立ち向かう、永遠の不毛な追いかけっこから抜け出すことを「愛」という概念で追求されていたのだと理解しました。

宮路さんは、ゲームというツールを通して世界観を共有するのではなく、ゲームの中に人が存在して世界そのものとなってしまうような時空の集団トリップ(旅)としてゲームを捉えようとしていたのかも知れません。

新たな地平は、宮路さんの死を新しい命と受けとめたジー・モードの仲間たちが切り開いていくことでしょう。見知っている昔の仲間と話をして、確信しました。早すぎる死が、私を含め遺された多くの人それぞれに、新たな人生を与えてくれています。

宮路さん、今までありがとう。
そして、これからをありがとう。

お土産をいただきました。
近所にある和菓子屋さんの
どらやきです。
宮路さんの好物でしたか?
どらやき_宮路さんのお別れの会のお土産_20110914 2
Sep 11から10年、3.11から半年。失われた、そして今も失われている命に、合掌。

10年前のあの日から、毎日ずっと「テロとの闘い」という言葉を聞いているような気がします。正直、どうしても馴染めない言葉です。人が人である前に国民である現代において、国家に挑戦する自分たちの国を持たない人々が、“テロ”へ仕向けられ、その名において、有無を言わせず排除されているように思えて仕方ありません。そうして、無垢の命が、守る側と攻める側の双方で、失われて行く。

イラクやアフガンの現状を見る限り、事態が好転しているようには見えません。何の罪もない人たちが、何故死んでいくのかその意味も分からず、この世を去っていく日々が徒に続いてはいないでしょうか。

私はこの日、「放射能から子どもを守る活動」の一環として、来週福島のいわき市から遊びに来る子供たちを迎える準備のお手伝いに、檜原村の廃校旧藤倉小学校に行きました。

様々な震災支援を行っている“まんまる”の人たち。水源である奥多摩の森林資源を守るという具体的活動を通して未来を建設していこうとしている“かわうそ倶楽部”の人たち。ここ藤倉で出会い、協力し、皆で作業を行いました。

一人ではできないことでも、十人、数が揃うだけでできることもあります。声高に何かを叫ぶことではなく、一つ一つ、私たちの日常を確かなものに変えていく具体的な努力とその積み重ねが、今、求められているように思います。

排除や敵対について語るのを止め、ちょっとだけ、手を動かしてみませんか。

帰りに檜原村名産のじゃがいもで作った
焼酎を買い、あり合わせをあてに一杯。
一日の疲れが心地よくとけていく。
檜原村じゃがいも焼酎とキャベツの梅肉いため_20110911 2
先週「梶井健一お別れの会」に行ってきました。

四半世紀前、私が生まれて初めて海外へ旅した時にご一緒させていただいたのが、当時名古屋鉄道の社長だった梶井さんと奥様の時子さんでした。ユーロドル・ワラント債の起債調印のため、起債した名古屋鉄道が起債地ロンドンを訪問する際、引受証券会社の担当者としてお供したのですが、全てが初めてのお子様を担当に付けられた梶井さんは、さぞ迷惑にお感じになられたことでしょう。真実紳士だった梶井さんは、穏やかにそして丁寧に、私に接してくれました。素敵な人だった。

ロンドン滞在中は、奥様に随分とお世話になりました。お供という役割の筈が逆に奥様にご案内いただき、Claridge’sでハイティーを頂いた後オペラ座の怪人を見たり、Kew Gardensでスコーンを食べたりと、楽しい時間を過ごさせていただきました。

ご夫妻は、梶井さんの日銀時代、一時期ロンドンのGolders Greenに住んでいらっしゃたそうです。その頃J-J townと呼ばれた、ユダヤ人と日本人の街です。あからさまな差別があり、それ以外の場所では住まいを借りることは難しかったと聞きました。また、日本食材は殆ど手に入れることが出来ず、豆腐は中華食材屋で落ちても割れない固いものを買ってきて、調理されていたといいます。日本人が海外で暮らすことは、大変だったのですね。80年代後半から90年代前半、私が住んだ頃には多くのことが少なくとも表面的には改善され、あまり不便は感じませんでしたが、今はどうなんでしょう。

梶井さんは奥様のことを、Baker St. Irregularsをもじって「エイフク・イレギュラーズ」と呼んでいるんです、と笑顔でおっしゃっていました。活動的な奥様は「家外」なんだそうです。本当に心の通い合った、ご夫妻だったと思います。今頃、何処かで、先立たれた奥様と再会され、ご一緒に悠久の時の流れをお楽しみのことと思います。

叶わぬ夢だけれど、もう一度、お二人とゆっくりロンドンを旅してみたい。

お別れの会_サントリー広告 お一人
お別れの会_奥様と
お別れの会