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昔同じ会社で働いていた後輩から誘われて、3人で酒を飲みました。

次から次へと、脈絡のない話をしながら飲んでいると「宗教と哲学って、どう違うのですか」という問いかけがありました。私の答えはシンプルで「宗教は信じること。哲学は疑うこと」すると二人は、私が不安に思うほど妙に納得していました。

常に前提に疑問を持ち、結論を得た後も「本当にそうだろうか。それでいいのだろうか」と繰り返し「問う」という態度、様々な物事の本質を捉えようとする「問い」という形態が、哲学なのではないかと勝手に思っています。

信心を旨とする宗教と、哲学は対極にあるものと理解していました。

「宗教と哲学って、どう違うのですか」

この全く疑う余地のない事実だと看做してきたことに、疑問を持ちました。宗教と哲学を対義語ではなく類義語として並べてみたら、どうなるのだろう。例えば、真理とか真理探究といった概念で括ってみたら。宗教者と信者を対義語としてみたら、何が見えてくるだろう。

戦争と平和。生と死。愛と・・・愛の対義語は何だろう?

対義語と類義語という見方から、ちょっと否定的に、即ち哲学的にものごとを眺めると面白いかもしれない。そういえば、太宰がそんな遊びをしていたっけ。

当たり前の(と思っている)ことを聞いてみると、結構意外な返答が返ってきたりします。「へ~、そうなんだ」「なんで、そうなるの」「うそだろ、おい」

哲学は、美味しい、酒の肴です。

「生きることは食べること。食べることは生きること」私の人生哲学
トマトのグリルとキュウリ、ネギ、鶏肉の炒め物を作りました。召し上がれ
トマトのグリル キュウリの炒め物
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佐村河内守作曲「交響曲第一番 HIROSHIMA」を聴きました。

「交響曲HIROSHIMA」カバー
「原子バクダンが61年も私の体に巣くっていて、そして表に出てきたかと思って、びっくりした」MDS(骨髄異形成症候群)で亡くなった方の言葉です。正にこの言葉通り、放射能は遺伝子を攻撃し、染色体異常を引き起こし、長い時間を経て発症することがあります。
 
「放射能が絶対悪だと見られるようになったのは、主に原爆のためだろう。ヒロシマの恐怖や苦痛の話は・・・伝説的に語り継がれ・・・誇張された・・・核エネルギーの放射能によって死んだアメリカ人は一人もいない・・・放射能は医学の診断や治療に応用されていて、おびただしい数の人命を救ってきた」(“地球の論点(Whole Earth Discipline)” Stewart Brand著)原発反対から原発支持に転向した、環境保護論者ブランドの言葉です。

原因不明の激烈な頭痛と聴覚喪失の苦悩の中で作曲を続けている、被爆2世の佐村河内さんは言います「レクイエム(鎮魂曲)が、私のテーマかもしれません。生者が死者を慰める通常のレクイエムとは逆に、死者の悲しみや怒りを生者に届けたい。それこそが闇に生きる自分の使命ではないのか」

知の系譜が人類の歴史だとしたら、限界への挑戦は人間の性なのでしょう。ATOMを制御することは、人類の為すべき課題かもしれません。ブランドは、人類が放射能を管理可能だと認識しているようです。

私たちが前に進もうとするとき、死者の声に耳を傾けることが大事なように思います。
暫く耳を澄ませていると、別の風景が見えてくるかもしれません。

“管理可能”だと看做している事には、見落としているか切り捨てている“大切な何か”が隠されている。それを見よ。佐村河内さんの音楽が、私たちにそう訴えているように思いました。

私は「ヒロシマ」が、未来へのキーワードだと思っています。
夏の銀座ゆかた姿 3 「交響曲HIROSHIMA」バックカバー 銀座で氷を触る  
今年の銀座。ゆかた姿の女性、道に置かれた氷で涼をとる子供たち。
亡くなった恩師から、プレゼントをいただきました。

先日、先生のお宅に伺い書庫の整理の手伝いをしましたが、作業の途中一休みしている時何気なく見ていた背表紙の中に、ずっと手元へ置きたいと思っていた「ハイファに戻って」を見つけたのです。先生が、お前のだよ、と導いてくれたのだと思いました。
写真_ハイファに戻って 90×120
昔、何が気に入らなかったのか、酷く思い悩んでいた時に先生を訪ね、滔々と心情を吐露したところ、この本を読むといいと薦められた本が、カナファーニーの「ハイファに戻って」でした。読んだら正に“touch wood(これだ!)”というドンピシャの本で、読んだその本に救われ、自分には最適な助言をいただける先生がついているという安心を得、何とか苦境を乗り越えることができました。

「人間はそれ自体が問題を体現している存在だ」
「いつになったらあなた方は、他人の弱さ、他人の過ちを自分の立場を有利にするための口実に使うことをやめるのでしょうか」

そう。他者に依存しない。

成功や失敗、苦しみや悲しみという現象は、次から次へと、起こっては消えていきます。自分がコントロールできない事や、他者の行いが直接負の影響を及ぼすことも少なくないので、どうしてもそれらのことが気になり、自分を見失ってしまいます。

現象を追えば、本質が見えません。戦争や天変地異によって、不幸に見舞われることもあります。それでも私たちが生きて行かなければならないとすれば、生の本質は別のところにあるはずです。

常に自分の内から湧く言葉に耳を傾け、自分の通りに行動し、その結果の全てを自分が負う。他者のことは口にしない。それも自らの非として受けとめ、自らを変えて行く糧とする。

他者に翻弄されていた自分ですが、そう生きようと思いました。
午後、農園カフェの打合せがあり、今週は半日だけの畑仕事。ちょっと、楽してしまいました。

南北9m、東西8mの今在る建屋を改造し、農園カフェに大変身させようというので、先ずは専門家を招き、基本事項のチェックをしてもらいました。来ていただいたのは、私が両親の家を修繕した時にお世話になった、建築士の細野さんです。気さくな方で、私が「お金はありませんが」と切り出したら「いいですよ」と軽く流し、三重から出向いてくださいました。

とても楽しかった。

勿論、極めて真面目な話合いなのですが、四角四面に物事を進めても面白くもなければうまくも行かない。自らの持つ技術や経験の範囲内に計画を閉じ込めるのではなく、自由な発想からプロジェクトを創っていく。そんな感じの、豊かな3時間を過ごしました。細野さんのお蔭です。

お金を使わず、知恵を絞り、周囲にあるものを使う。

屋根はどうする?麦を作っているから、麦わらを使い、わら葺きにしたら。麦わらを圧縮して、壁にするのもいいかも。床は竹藪から竹を切って敷けばいい、等々。

古民家の重厚な味わいとは異なった、農園らしいカフェができるかもしれません。

打合せを終え、雑談に花を咲かせているとき、かぼちゃの芽は美味しいと教わりました。
かぼちゃの芽265×199
早速畑に出てかぼちゃの芽を摘み、天ぷらに揚げました。くせのないさっぱりとした味です。
かぼちゃの芽の天ぷら265×199
あるもので楽しく生活ができる。そこにあるものを食べよう。