FC2ブログ
1週間、子供の受験に付き合いました。

先週日曜、畑から帰ってみると子供が試験を受けた後大きく落ち込んでいました。たかが受験、試験を受けるだけじゃないか、と切り捨て、気にも留めていなかったのですが、突然、最優先事項として対処すべき私の課題となりました。

子供「全然、出来なかった。帰り泣きたかったけれど、泣く場所が無いので帰宅した。帰宅したら誰もいなかった。世界史が酷かった。昨日復習したところ、今朝見直したところが出たが、出来なかった。どうしたらいいか、分からない」
私「高校の時、数学の試験の直前に、友人からこの問題教えてと聞かれたので、教えたことがある。全く同じ問題が出て、その友人から『お前に教わったから出来た』と言われたが、自分は出来なかったことがあった。何故出来なかったのか分からないが、そういうことは起きるものさ」
子供「パパは、規格外だからな」

気分転換し、リセットすることを先ず考えましたが、原因と結果をロジカルに分析し、対処する必要があると思い直しました。しかし、どうすればよいか、見当もつきませんでした。

翌朝、肩を抱き、声を掛けたら「理解するのに、時間が掛かりすぎるんだ。世界史は、勉強する時間が足りなかった」と返してきました。自分を理解している。これなら大丈夫だと思い、仕事に出ました。

その日所用があり、帰宅したのは23時近くなりましたが子供が起きていたので部屋に行き、それから2時間程話をしました。恥ずかしながら、その時初めて、子供が様々な悩みを一人悩んでいたことを知りました。

自分はある時期まで、先生の言うことを聞き真面目に努力していたが、それでいいのかと思うようになりその真面目さを失い、受験勉強に没頭してこなかった。どの大学を出たかで人が何者か決まってしまうように教えられたが、それはどういうことなのだろう。何の役に立つのか分からない“エマル”“ウガリト”といった都市の名前をひたすら憶えて目指す大学に入ることに、全てを捧げることがどうしても出来なかった。

自分が目指す大学を踏み台にしている人たちもいれば、自分が同じようなことをしている大学を目指す人もいる。何をしているのか、よく分からない。

部活のことや、更には”HUNTER×HUNTER”のことまで話し、子供は言葉にすることで、悩みを多少昇華させることができたように思います。一方親である私は、教え、諭されました。自分の興味で子供に接していてはいけないこと。子供の内面を把握し、子供のために環境を整えること。親であるための努力をすべきこと。当たり前のことが、出来ていなかったようです。

それから毎日、帰っては受験勉強に付き合い、ちょっと豪華目の食事を作ったり、チョコを買ったり、バカ話をしたりと、リラックスしながらモチベーションを維持することに注力しました。親馬鹿、です。
受験チョコ
今日が、最後の試験です。

予想通り試験の結果は悲しいものかもしれませんが、自分の失敗を否定し自分の存在を矮小化するのでなく、失敗と向き合い越えていくことを、子供は学んでいます。受験を通して、子供は成長しているようです。

私たち親は、ただただ頑張れ頑張れと受験を煽るのではなく、子供の疑問を引き受け、子供の悩みを悩むことで、親として成長するよう、求められているようです。
スポンサーサイト



「その体験は感動的か?」マツダの企業コンセプトだそうです。

「ある日、人は生まれ」
「感動的な体験をする」
「それは『ブーンブーン』とものを動かすときに...」
「湧きあがるときめき」

マツダのブランド・エッセンス・ビデオの冒頭に出てくるフレーズです。マツダの社員は事あるごとにこの原点に立ち返り、「理想は何か」を問い、解を得、先へと進んでいくそうです。

“バックキャスティング“という考え方があります。「将来を予測する際に、持続可能な目標となる社会の姿を想定し、その姿から現在を振り返って、今何をすればいいかを考えるやり方。目標を設定して将来を予測すること」(デジタル大辞泉)

先日「働き方と組織の未来」というダイアローグセッションに参加して大変有意義な時間を過ごしましたが、そこでの話に“1億2千万人の日本を前提に私たちの未来を語ることは正しいか”という議論がありました。日本の人口は江戸後期で3千万人、終戦時で7千万人です(「歴史的に見た日本の人口と家族」参照)。1億超えは異常値であって、私たちの国土における持続可能な人口は、戦争に勝つために産めよ増やせよと頑張った結果の7千万人より少ない、例えば5千万人なのかもしれません。

“Change or Die“を文字通り体験し、華麗に蘇ったマツダの「理想は何か」「その体験は感動的か?」と青臭く問う姿勢が、今私たちに、最も必要なことのように思いました。

“ふるさと消滅。人口減少により町が消えゆく“といたずらに恐怖を煽り煽られるのではなく、人工減少をスペーシャスなゆとりある暮らしが可能になるかもしれない機会と捉え、ではどのような社会が実現できるのか、人と街をゼロベースでプロットしていき、新しい日本地図を創ることを考えたいと思います。

そうして初めて、都会と田園、地方と都市という概念対比が、はっきりと見えてくるように思いました。

私がこれから従事しようとしている農業で言えば、1億人の人を養うために、化学肥料を使い農薬を撒き散らして無理に増量することなく、5千万人なら、皆が安心安全な野菜を適切な価格で食べられる、かもしれないということになります。

「その体験は感動的か?」といった基軸となるコンセプトについて私たち皆で議論し、結論をシェアした上で“バックキャスティング“という手法により、私たちの未来を築いていきたいと思います。

過度な施肥を施さなくても、麦は育ち、実をつけ、私たちを養ってくれます
麦の芽
過度に土地を収奪しなければ、持続可能な循環に身を置くことができます
昨日、57歳になりました。

お恥ずかしい話ですが、やっと自分が何者で、何処から来て何処に行こうとしているのか、おぼろげながら道らしきものが見えてきたように思います。

人とは、他者がいて初めて人となるように思います。それは周囲で、他者が立ったり座ったり、あっち行ったりこっちに来たり、握手をしたり殴られたりする、ということ以上に、心の中に常に他者の居場所が有って、他者が自分の精神の必要不可欠な部分を成しているという意味合いにおいて、そう思います。

昨日家族に祝ってもらい、fbで多くの方から暖かいメッセージをいただき、この歳になって誕生日もないものだと思っていましたが、素直に嬉しく、幸せを感じました。

自分と向き合わず、他者を追いかけ縋って、自分の中の空洞を無理やり埋めようともがいていましたが、それでは皆、逃げていくばかりで、誰も振り返ってくれませんでした。

恩師が亡くなって初めて恩師の声が聴けるようになり、友人が亡くなって初めて友人が昔話しかけてくれたことを理解し、自分の中の他者の居場所を少しずつ発見していくことで自分の中の空洞が癒されるようになりました。

57歳。漸くスタート地点に立った、そんな感じです。
誕生日ケーキ