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9月24日(土)25日(日)、一人黙々と草を刈り、草を取りました。

24日終日と25日の7時から9時まで、16日(金)に手を付けて完了しなかった畑の草刈りと、更に遡る8月29日に途中まで刈ってそのままにしておいた畑の後始末をしました。
my 畑の草 草刈りを終えたmy畑
8月末刈れず半端に残った家の裏のmy畑の草 刈り終えた家の裏のmy畑
4時間と3時間の仕事量と見積もり、一日で終える想定でしたが、4時間の筈が5時間半、3時間の筈が4時間となり、24日中に終りませんでした。翌日は別の畑で仕事が予定されていたため、早めに朝食を取り、7時前に畑に行き、9時過ぎに何とか仕上げ、車で20分程離れている次の畑に移動し、ここは12時30分にクリアし、時間をキャッチアップ。午後の仕事も時間内にこなして、何とか辻褄を合わせることが出来ました。

25日の予定は、午前に大豆畑の草取り、午後は田んぼのヒエ取りでした。17時半、もう薄暗くなったところで、田んぼ1枚一抱え程のヒエを漸く取り終え、ぎりぎりセーフといった感じで、多少の達成感と極度の疲労を覚えながら、帰途に就きました。
 
見積もりの甘さ、作業能力の低さ、草刈り機の燃料消費の多さ、と生産管理と作業効率について反省しきりの二日間でしたが、エキストラの+2時間があったとは言え、予定作業を完了出来たことは、まあ、今の自分としては合格点かな、とも思います。

仕事をしながら思ったのですが、絶対効率のようなものがあって「お前は基準値以下なので不良品」みたいな考え方をする向きもあるのでしょうが、人の作業効率というものは、作業が、何故にそれをするのかという理由であり目的が先ずあって、それを達成するために行う行為と考えれば、資源・資材の無駄は困るものの、多少遅くても早くても構わない、作業時間・品質+α、と考えることなのではないかという気がしてきました。人は、機械のような、均質な労働資源では無いのですから。

以前農家の批判のようなものをお伝えしました(「田植考‐文化としての農業」参照)が、無農薬や古式農法を選択していることは、ある意味、効率=単位収量の最大化と投入コストの最小化、を度外視しているのですから、素人がひたすら汗水たらしてチンタラ作業しても別にいいじゃん、みたいな乱暴な話です。自己弁護、言い訳ではありますが、どうでしょうか。

効率という横軸に意味(何故するのか、しているのか)という縦軸を加味して、作業や仕事というものを見てみると、個々人の在り様に見合った相対効率みたいなもの、が発見できるかもしれません。

その相対効率を基に、全体成果を最大化する。

そんなマネジメントや組織が、求められているように思いました。
9月末の田んぼ
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9月18日(日)さいたま市の埼玉県障害者交流センターで行われた、わくわくチャレンジ祭2016に参加しました。

「障がい者・健常者と互いに区別されることのない社会の実現」が、テーマです。
 
メインホールのステージで音楽演奏やお笑いなどが催され、中央客席の周囲にはプラバン作りや切り絵など参加型のテーブルと飲食出来るスペースを置き、誰でも飲み食べ、楽しめる、飾らない故に温かい集いでした。他の部屋では、「障害者の就労について」のシンポジウムや「特性のある子の就学・進学懇談会」といった現実を認識し、対処していく実際的な場も設営され、共に楽しむと同時に事実を受け止め、明日を共に歩んでいこうとする、バランスのとれた催しだったと思います。
プラバン 長瀞天然かき氷
私は、スタッフとして会場設営、撤収、そしてお昼用のパンの販売を担当し、メインホールの後方壁際に立ち、一日を過ごしました。

口笛を吹く会の方々の演奏で、お祭はスタートしました。客席に降りてきて子どもの手を握り、その子が吹く口笛にマイクを向けたりもして、一緒に楽しむ時間は素敵なものでした。何かをしていることは、それだけで素晴らしい。他人の顔色を気にすることはない。他者に「害」をもたらさなければ何をしてもいいんじゃないか、と思いました。

主催者が「障がい者」とあえて「害」の字を使わない理由が、分かったように思いました。
何故に「障害」なのか。誰の「障害」なのか。皆が、考えてみるべきことのように思います。

次に、盲目の中学校教師のお話と琵琶の演奏がありました。
琵琶を弾く新井淑則
「障害者は、感動ポルノとして健常者に消費される」というステラ・ヤングさんの言葉や「自立とは、依存先を増やすことである」という熊谷晋一郎さんの言葉を引用しながら、障害者の現実と健常者の意識のギャップについて話をされました。「健常者は自身の問題や他者への依存に気付いていないだけ」という私たちの恥ずかしく貧しい日常に、改めて目を向ける必要を強く感じました。

若手芸人のお笑いですっきりした後、バリヤ・フリーピヤノ研究会の方々の演奏がありました。聴覚が無いため人工内耳を使用している方や自閉症、ダウン症の方々の演奏を聴きましたが、素晴らしかった。

最後に、バリヤ・フリーピヤノ研究会の方の伴奏で「翼をください」と「BELIEVE」を全員で合唱しました。その方のピアノはパッションが溢れてしまって、リズムもちょっと独特で歌いづらいのですが、皆が合わせていく様子が印象的でした。美しくなくても乱れていても、皆が心を合わせていれば素敵な音楽になるのだと、音痴の自分も大声を張り上げ旋律を乱しながら、自分の音痴を弁護するようなことを考えていました。

音楽が好きでたまらないというピアノ奏者の気持ちが、音の波となって私の体全体を止むことなく繰り返し叩くようにダイレクトに伝わってきて、涙を抑えることが出来ませんでした。

人が人であるということは、異質の他者と共にあることだと思います。それは、傷つき傷けられながら自分にとって都合の悪いことや嫌な感じを受け入れて、他者と一緒に居られることではないでしょうか。そして好きなこと面白いことは目いっぱい一緒に楽しめる、そんなことなんじゃないかと思います。

以前より障害者の問題は気になっていましたが、自分のことに忙しくそのままにしてきました。相模原の事件に接し、加害者個人の特異性で片づけてはいけないと感じていましたので、企画会議に参加し、当日スタッフとして関わりを持ち、楽しみ考える一日を持てたことを有難く思いました。
北澤親子 ピアノと歌2 北澤親子 ピアノと歌
写真は、長瀞で障がい者の自立のために開いたうどん屋「ゴーシュ」の運営者にしてピアノの先生でもある、主催者の北澤さんとご子息です。
9月10(土)11(日)の二日、大豆畑の草取りをしました。

10日は一人、1反程の畑を大豆の間を行っては帰り、帰っては行き、太ももの裏が張ってくるまで汗をかいては水を飲み、朝9時過ぎから夕方17時過ぎまで、ひたすら草を引っこ抜きました。草の多いところから始めたため、昼の休憩時点で「ひょっとすると、今日中に終わらないかも」とちょっと嫌な感じがしたので、疲れてはいましたが多少早めに畑に戻り、ペースを上げ、なんとか暗くなる前に仕上げることが出来ました。

区切りを付けることは管理上必須ですが、気持ちの上でも重要です。「一仕事したな」という安堵と満足を得て、人が生きていくための大きな力だと改めて思いました。
大豆畑 取った草たち
11日は友と老夫婦と計4人で、南隣の畑の草取りをしました。休憩のときに、チーズや梅干しをご馳走になり、お話を伺いました。農業は儲からないという観念や時代にマッチしない格好悪い仕事だという感覚をもしかしたらお持ちなのかな、と感じる言い回しが幾つかあったように思います。思い過ごしでしょうが、行政や世の中の動向に振り回されてきた日本の農業が、今ここにあるように感じました。

「私は90歳。足が悪いので、歩くのがしんどい」とご主人がおっしゃるのを聞き、普通90歳でこれだけ肉体を使うことは出来ないだろうと思ったり、奥様が「歳だからね、しっかり食べるようにしている」「夜寝る前に30分、筋トレをするんだ」「こうやって50回」と腕を振っている姿を拝見し、ああ、兎に角、10日でも20日でもぶっ通しで草をガンガンむしっていく体を作らなければいけないと思いました。

そして塩飴をいただき、午後になると疲れが出て来て一寸しんどい仕事に、恥ずかしいなと思いながら戻りました。

土と風と雨と空と違和感なく繋がって、幾らでも体を動かせるようになりたいものです。
秋だね 赤とんぼ
赤とんぼが小首を傾げて、私を見ていました「あんた、そこで何してるの?」と言いたげに。
昨晩、奇妙な夢を見ました。

子供のころ住んでいた家の物干しに続く夜の廊下に、シカが何体か倒れているのです。もう長くない、明日朝には死んでいるだろう。死骸を見たくないな、と思いつつ眺めている自分がそこにありました。

明日朝、自分の視界から消えていて欲しいと願うなんて、身勝手だな。自分に都合の悪いものは排除しようとする、憎むべき習性だ。夢を見ながら思いました。

「他者の都合を引き受ける」

人の目の前に勝手に倒れ死んでいく奴の面倒なんかみてられるかと思いつつ、何故かそんな言葉が頭に浮かびました。そして「共生」について、考えはじめました。

他者の都合から物事を眺める、習慣付け。そんなことが必要なのだろうと。

自分の感情を害するもの、自分の存在を危うくするかもしれないものに対して、嫌悪の情を感じたり敵意を持ちながらも、共に環境を構成する必要な存在として受け入れる。時に他者が起こした問題を自分のこととして処理し、時に距離を置き暴発を避け、時に厄介な他者を忘れ、好きにさせる。兎に角、自分の都合はいったん保留にし、先ずは他者を優先させる。そんな心構えです。

害獣、害虫、雑草。益獣、益虫、作物。全てヒトの都合です。今ある自然がパーフェクトなら、彼らはそこにあるべき存在で、ヒトがとやかく言うべき筋合いはありません。ヒトは、圧倒的な暴力を振るい、自分の都合で多くの種を絶滅させ、その反動で特定の種を過増殖させたりしてきました。その時は良かったかもしれませんが、結局自分に返ってくる、愚かな所業だと思います。
黄色い虫 田んぼのアマガエル
田んぼのバッタ 青い虫
田畑で作業をしていると、好きになれるもの、なれないもの、存在を否定したいもの、私の体を害するもの、様々なものと出会います。自然を尊重し共生を必然とするなら、あらゆるものと折り合いをつけなくてはならないのでしょう。しかし、血を吸われたり、噛まれて病気になったりして、笑って許すほどの器量を、私は持ち合わせていません。せっかく育てた作物が虫害で全滅したら、死ぬまでその虫を呪うことでしょう。

言うは易く行うは難し。

実際に多様なものたちと共生することは、極めて難しいことだと思います。多様性ということには、恐らくリスクが含意されているからです。

排除の思想を捨てなくては、スタートラインにも立てません。

出来るのかな。
9月3日(土)4日(日)5日(月)と6日(火)お昼まで、群馬で汗を流しました。

三日間の予定で月曜夜には東京に戻る積りでしたが、しなくてはいけないことが月曜に終わらず、半日の延長となりました。

3日は、大豆の芽欠きとゴマの葉欠き。4日は、午前中、畔の草刈りと前日終えられなかったゴマの葉欠きの続き、午後はゴマの刈り取り。5日は、終日、我が田んぼの草取り。6日は、5日に行う筈だったテグス張り(鳥除けです。ピラーを4、5メーター間隔で畔際に立て、右下の写真、真中より上に細く黒い横線が見えると思いますが、四方で縛りながら田を囲むように、3段に張りました)をして、田に水を入れました。
葉のついているゴマ 葉を落としたゴマ
テグスを張る前の田んぼ テグス張り

我が田んぼ、3日に見た時には穂は出ていなかったのですが、5日には稲穂があちこちで出ていました。恐らく週末には、我が田んぼが稲穂で満たされていると思います。
稲穂が出てきました_20160905
田畑は、短時日で、びっくりするほど異なった風景になることがあります。

時々刻々、作物は成長し、変化しています。私たちは、自分の都合を後回しにして、これに適切に対応しなくてはいけません。また天気や土の具合により、明日の予定が今になったり、今日の予定が数日先に延びたりします。

ゴマの刈り取りは、予定外の作業でした。4日は雨が降っていて午後別の畑に行く予定だったのですが、晴れてきたため予定を変更して行いました。テグス張りは、稲穂が出てきているので東京に帰る前に行わなければならない作業でした。5日に行う予定でしたが、半日と見積もった田の草取りが思いのほか草の量が多かったため終日作業となり、テグス張りは翌日行うこととし、私のスケジュールを変更しました。

畑には畑の時間があり、田んぼには田んぼの時間があります。

人の時間は調整可能だと思いますが、畑と田んぼの時間は、天候に相関する絶対時間のようなもので、私たちを待ってはくれません。

私たちを中心に環境をコントロールするのか、私たちが合わせるのか。

環境や共生という今日的課題を考える上で、最も基本となる私たちヒトの立ち位置を先ず決めろと、農作業は教えてくれているように思います。それは、ひょっとすると、人類史を大きく変えるほどのパラダイムシフトを示唆しているのかもしれません。