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高瀬舟を読み、“「死には死を」ならば、森鴎外の高瀬舟はどうなんでしょう・・・”とのご質問について考えました。

「奪ったものは、返してもらう」ことがルールならば、自死を除き、殺人を犯した者には、如何なる理由があろうとも死によって罪を償う以外の選択肢は無い、ことになります。

鴎外の高瀬舟では、時の「オオトリテエ」(お上、裁きの執行者)は罪一等を減じ、弟を殺した喜助に死罪ではなく遠島を命じました。シンプルに考えて、これはルール違反です。

“生きることが苦しいから死なせてくれ”と言う程に苦しんでいる人は、実際にいると思います。しかし、だからといって“殺していい”とはならない。自分で最期の時を決めればよいのです。人の苦しみを取り除くことは神の領域の話で、人が関与すれば、その人の手には血がこびりつき、洗い落とせるものではありません。

ところで、高瀬舟とはどういう話なのでしょうか。
喜助の話を信じるか、信じないかで、全く異なったメッセージを受け取ることになります。

今日、私は以下のように読みました。
「どこやらに腑に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかった」という件から、庄兵衛は「足るを知る」と思われた喜助に、こんな生もあるのかと一旦は驚愕するものの、出来過ぎた安楽死の話を聞き、人とは様々なものに執着せざる得ず、そのために「欺懼」を持ち続けるものであり、その生の本質はやはり苦であろう。世の中というカラクリの中で、所詮、悲苦して生きて行く他はないと結論付けたのではないか、と。

ちょっと遅目の七草粥。飲み疲れた胃に、労りを。
七草粥_20110109 2
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