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リディア・フレムの“親の家を片づけながら”を読みました。

「私がずっとほしくてたまらなかった中東の絨毯がここにある。両親はそれを私に贈る気はなく、決して手放そうとはしなかった。両親ふたりが亡くなった今になって、なぜ私には手に入れる権利が生まれたのだろう。自分の物にするにはどうも気がひける。彼らから無理やりはぎ取るような、だましているような気がしてならないのだ」

はっとしました。

親との距離。その死。そして、相続という法的手続をこのように考えることができるのかと。

「その昔、死は皆で経験するものであった・・・そして今、死は私的なものになってしまった」という件と併せ読むと、人は消え、物だけが残る中で、人は人が自ら創った、孤立した個人を前提とした社会という虚構に対して耐え難い問いを問わざるを得なくなるものなのだと、作者は訴えているように思いました。遠い昔、共に生きる多くの隣人たちが頷き合うことで違和感なく承継されていた事柄が、その素朴な共同体が崩壊し、大きな悲哀に個々人が一人深く向き合うようになったために、簡単には受け入れ難いものになってしまったということなのでしょう。

絆とは、求め、築くものなのだと思います。
例えそれが、親子の間であっても。

私たちが進むべきは、この耐えがたい問いの向こうにあると思いました。失われたものは、戻ってきません。昨日の安穏を求めることは、不可能です。環境も私たちも大きく変化しています。勇気をもって、今日を掘り起こし、明日を築くことが、求められていると思います。

ネガティヴを受け入れ、痛みを分かち合い、目的に向って進もうとする覚悟の共有。それが現代の絆であり、私たちに今、最も必要なものではないでしょうか。

先日友人に連れて行って貰っ
た料理屋でいただいた焼いた
アボガド。美味しかったので、
真似てみました。
アボガド焼_20120110 8
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