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戦争について、考えてみました。

理由は、2つあります。この夏、広島への原爆投下に関するNHKのドキュメンタリー2本を見て怒りを感じたことと、20代後半の方が主催した「私たちの8.15」的な集会に参加し、テーマである「戦争とは何か」に直接向き合う機会を得たことです。

参加者の意見を聞き、あれこれと考えていると、「戦争」とは人間の本質とある意味同義ではないかと思われるほど、奥深い概念であるように思われてきました。そして行きついたことが、「文化」という言葉でした。

人は、生きていることに何某かの価値を認めることによって、その生を全うしようとする生き物であると思います。価値の体系には様々なものがあると思いますが、代表的なものは宗教でしょう。そして様々な価値の体系の総体として、文化を考えることができると思います。

文化は、実際の行動や生活を制約したり促したりする、長い時間を経て確立された規範です。規範は、現実的であると同時に正義や徳といった「あるべき」人の姿や美醜、善悪の判断を含みます。

原爆投下は「必要悪(“necessary evil”)」として、肯定されました。

正義は時として苦いものだ、というのでしょう。文化の敵、暴走する日本人の戦争を終わらせるためには、市民の大量殺戮という劇薬が必要だとの主張には、日本の制空権、制海権共に無く、勝敗の帰趨は明らかとなり、ヤルタ会談で既に戦後が実質的に開始されていることに鑑みれば、無理があるように思います。米国が世界にその力を示し、ソ連に対して優位を保つために戦争終結とは直接関係の無い原爆を投下したと考える方が、説得力を持たないでしょうか。日本の共産化や分割統治を避けるためには、必要だったかもしれません。しかし、投下された国の一般市民の悲惨は想像を絶するものがあり、私の感情は、日本人では無く人として、「必要悪」と肯定することを拒否します。

ドキュメンタリーで語られた「四つん這いの黒焦げの犬が来た、と思ったらお母さんだった」という一言が、忘れられません。

戦争とは「相手を武力でねじ伏せ無力化し、自分たちに従わせること」を国家単位で行うことだと思います。妥協不可能な対立する二つの考え方や行動様式の二者択一を、武力で解決し、勝者がその後のルールとなる訳です。自らが正しく相手は間違っていると考え、譲ることはしない。そして、相手を敵と呼び、暴力の行使を必要悪と肯定し、武力によって相手を屈服させるまで人を殺してよい、というロジックです。

「国際の平和及び安全を維持すること」を目的とする国際連合の憲章において、戦争は回避すべきもの(1章2条4項)としながらも、肯定されています(7章)。国家がその存続を全うするために行う手法を政治と呼ぶとすると、戦争(潜在的な脅威に対しては、武力の保持となる)は、政治の一手段として、世界の至る所で重要な役割を果たしています。

以下は、1999年のセルビア空爆時の写真です(ブログ「他人のモノサシで考えることが出来るか?」参照)。この光景から、私は「戦争とは、人間の尊厳の否定」なのだと考えるようになりました。少女は、今、何処で何をしているのでしょうか。憎しみの連鎖に囚われていないことを望みますが、無垢の人間が死にゆく戦争から、平和な世界が生まれるとは思えません。
1999@serbia_time of NATO bombing
ここから脱却するには、勝者と敗者を前提とした世界観を捨て去る以外に方法は無いように思います。如何に荒唐無稽に見えようとも、私たちは、そのための努力をしなくてはならないのではないでしょうか。人の命と心を守るために。

敗者が勝者に、無理やり従う生活に、平和な世界を見ることは出来ません。万人の自由を保障し、幸福を追求できる環境を平和と定義するならば、武力を前提としない、新たな世界文化を創造しなくてはならないと思います。
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