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8月6日(日)、炎天下一人、田の草取りをしました。

午前中1枚、午後1枚、電動はったんころがしを使って、大きく育ったオモダカと格闘しました。「もう遅いんだけど、やってみてくれる」早め早めに、きっちりはったんころがしを転がしていれば、恐らく今これほどのオモダカは生えていなかっただろうと思います。私たちが浅く転がしたため根が残り、繁茂してしまったのでした。
電動はったん
午前中は、しんどかった。1時間ちょっとで休みを取ったのですが、乱れた呼吸が5分しても元に戻らず、手拭いを頭に載せ「ハーー」「ハーー」と肩で息をしながら座り込んでしまい、10分ほど立ち上がれませんでした。「兎に角、午前中に仕上げないと」。気合を入れて立ち上がり、転がすというよりは、体を前傾させ腹で押す、といった感じで、青い空、白い太陽、緑の稲、ギリギリするような夏のハイコントラストの中を行っては帰り、行っては帰り、ぬかるみを20往復程して、何とか昼前に作業を終了しました。

田んぼの中で泥に足を取られながら25mほどの距離を行ったり来たりしていると、結構いろいろなことが頭の中を駆け回ります。

例えば「環境とは何か」とか。

農業は、自然を直接相手にしている、極めて人間的な活動です。その歴史は、単純化すれば森林を消滅させ動植物を排除してきた、環境と生態系の破壊です。人間は、定期的に食料を得るために、森の木を伐り、土地を開墾し、川の流れを変え人工物で固定し、灌漑を施し、農地を作りました。そして品種を改良し、施肥を施し、虫害を除き、収量を増やしてきました。今日では、植物生理に働きかける農薬と遺伝子組み換えによりその農薬に耐性のある作物を作り、その組み合わせで効率的な農業を営むようにもなりました。

人間は、環境をマネジメントする対象として扱い、してきたと看做しているように思います。しかし私には、それは単なる資源搾取と環境破壊でしかなく、活動規模がグローバルに拡大した結果、ご自慢の科学の成果が、私たちの手に負えない途方もない副作用を及ぼすようになってしまったように見えます。

人間がヒエラルキーの頂点に立ち、他のあらゆるものとは異質の優れた者であるとする人間中心主義から離れ、他のあらゆるものと同様に環境の一部であり、役割分担を全うし、取り分を独占せず分かち合うことで全体を維持していくという、環境主体主義へとパラダイムシフトを迫られているのではないか。汗を流しながら、そんなことを考えます。

変えるべきは環境ではなく、私たち自身ではないでしょうか。

「環境」とは、私たちのロジックで理解し、私たちの視覚に映っている脳内映像ではなく、私たちを含めた今ある全てと考える、そうした考え方もあるのではないかと思い始めました。

畔に、小豆が植えられています。雑草と共にあることで、強く逞しく育つと聞きました。
畔の小豆 稲を背景に 畔の小豆2
畔の小豆 大豆の芽
先週、不耕起の畑に金づちで穴をあけ、大豆の種を置き土を被せました。右下の写真は、1週間後に発芽した大豆の芽です。農地は整えるもの、とは限らないようです。

生きていく状況の全てを環境と呼ぶのなら、「循環型社会」の実現とは、環境における私たちの居場所を、ポジショニングすることではないかと思いました。
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