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正月3日、4日、家内と映画を見ました。

「聖の青春」「君の名は。」「彷徨える河」の3本です。備忘録的に、見て感じたことを書き残そうと思って何度か下書きをしたのですが纏まらず、今日まで放置してしまいました。先に進むために一旦区切りを付けるため、過ぎ去り忘れられていく今を反映する時間の断片を、ここに書いておこうと思います。

「聖の青春」は二人とも原作を読んでいて、映像化された作品を楽しみにしていたものですが、羽生善治との関係に絞り込まれていて、病を抱え生きた一人の若者としての村山聖が背景に退いてしまったような気がします。

蛇口から水道水がポトッ、ポトッ、と落ちている場面が2度、出てきます。今日も生きているのか。毎朝、自分がこの世にあることを確認する命の水音ですが、原作を読んでいない人には「だらしない奴。蛇口くらい、きちんと締めとけよ」と言われそうで、村山聖がぎりぎりのところで生きていたことを象徴するはずの基調音が見ている人たち皆に届かないように思われて、ちょっと残念でした。

しかしながら、絞り込むことで見えてくるものがあります。将棋という闘いの場に邂逅した二つの才能が創り出す世界、それは二人にしか行けない、二人にしか見えない海ですが、その、他者は深く潜れないけれど触れ、感じることは出来る世界に、人々が魅了され吸い込まれて人々は生きている。2流棋士であれ、落ちこぼれた棋士崩れであれ、敗者もまた、二人の対局において、将棋を楽しむことが出来る。人が生きる、とはこういうことだと思いました。人とは意味を求める者だと思いますが、勝敗に至る一手一手に、対局を囲む人々も意味を感じるのだと。だから、生きていけるのだと。

「君の名は。」は子供が通っていた学校が出てくるので、何となく気になっていました。実際見てみると、昔住んでいたところから歩いて5分もかからない、よく散歩に行った神社やお世話になっている歯医者のビルの看板なども出て来て、それだけで楽しめました。
須賀神社 須賀神社から若葉町へ向かう階段
「彷徨える河」は東京での上映が終わっていて、横浜での上映を待っていたものです。南米コロンビアの映画。アマゾン川流域を舞台とした、厳しく、美しい映画。その厳しさは胸を締め付けられるほど厳しく、その美しさは目に沁みるほど美しい。これ、すごいです。と藤原帰一が評している話題作。難しい作品ですが、魂を揺さぶられる、そんな映画でした。

大変興味深いことに、探検家の手記に触発されて作られたコロンビアの「彷徨える河」と日本のアニメ「君の名は。」のモチーフに共通する点がありました。

どちらの作品も、時間が錯綜し、結(むすび)と覚醒を通して物語は進行していきます。主人公の一人は神々と係わりを持つ立場にある者で、「君の名は。」では巫女の三葉が瀧と、「彷徨える河」ではシャーマンのカラマカテがテオ/エヴァンと、夢(無意識)で繋がれます。そして、その夢(無意識)に真実があり、夢(無意識)を信じることが生きる力となり、現実を動かしていくのです。

また、どちらの作品にも、彗星が流れる場面がありました。天(地球の外。人智を超えたもの。神の領域?)から大きな力が加わり、私たちの世界が変えられていく、あるいは創られることに私たちの注意が向けられます。
須賀神社の狛犬 あ 須賀神社の狛犬 ん
人の事、人の時間に齷齪して自分を見失っている現代人として、人を超えた何ものかに自分を預け、縮こまった自分を解放し、その先にある自分を信じてみたい、と思いました。
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