FC2ブログ
コロナ禍や気候変動は、病気や災害という技術的な範疇を遥かに超えて、人間社会の根源を揺さぶり続けているように感じます。

「ヒトとは何か。何をするものなのか。私たちは何でありたいのか」

よく考えなくてはいけない、と思います。

おしゃべり、は本当に不要なのか。不急なら、いつになったら良いのか。「社会的距離」と簡単に言うけれど、それでいいのか。手をつながなくなって、本当に私たちは“ヒト”でいられるのか。経済が大事というけれど、経済ってそもそも何なのか。仮に経済をマネーに係わる総体とするなら、家事・育児のような本質的にアンペイド・ワークであるものについてどう考えるのか。ひょっとすると、後回しにされるアンペイドの方を優先すべきではないのか。マネーに支配された既存の経済活動は「農業革命は史上最大の詐欺」農作物に「ホモサピエンスは家畜化された」とハラリ氏が指摘するような意味において、一部の富裕層を除いた大多数にとって、実は無くても済むものではないのか。交換社会に移行することは出来ないのか。AIの時代に入りつつある今、ヒトの労働とは効率で測るべきことなのか。それは創造性や喜びという、全く別次元の尺度不要のことであるべきではないのか、等々。

今本当に“必要”なこと。これからの社会の礎となることは、何なのでしょう。

よく分からないのですが、随分と前に考え、中途半端に放置してしまった“必要としての農業“について、何とかしなくてはいけないと思うようになりました(ブログ「サラリーマン辞めました」「そこな少年現実を見よ」参照)。

以下は、私が考えてきた、産業というより“必要“としての農業です:
・食料の確保。
・耕作放棄地の農地としての再生。
・環境保全(無農薬・無化学肥料)。
・農事を核とした小さなコミュニティの創生とタイムマネーによる交換の促進。
・肉体労働と土との交わりを通しての癒し。

3年前、借りた農地を返さざるを得なくなり、トラクターやコンバインも手放しました。恥ずかしながら、今、具体的な策は何もありません。兎に角、少しでも農地に通い、体を動かしながら何が出来るのか模索しようと、この2か月半、4月末より月に何度か知り合いの農家で、畔の草刈りと多少の農作業の手伝いをさせてもらっています。
畑で働く気取ったボケ老人 ハンマーモア
ジャガイモ畑の株間下20cm-上30cm(逆台形) ハーベスト_不耕起の為か高温長雨のせいか昨年の半分程度
私が考える“必要”としての農業が時代と人々の求めていることであれば、そこに向かって草むらをかき分けていると、ひょっとして道が開けることがあるかもしれません。開けなければ、それまでのこと。向かう方向だけ決めて、やたら飛び跳ねず昂らず、静かに出来ることを只管愚直にやって行こうと思っています。
重く固い土を跳ね除け葉を広げるジャガイモ ジャガイモの天敵アブラムシを食べるテントウムシ
バッタ 20200701 ミミズ 生き生きとして楽しそうでした(私が邪魔をしなければ良かったのですが)
「見るべき程の事は見つ」(平家物語:平知盛)
「明日、地球が終わりであっても、私はリンゴの木を植える」(ルター?)

斯く在りたいと思います。

私たちが私たちであり切ること。それは私には、ちっぽけな自分がちっぽけな日常をそれと知りつつ齷齪していくことで初めて辿り着けるどこか、であるように思われます。

スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

  • URL
  • コメント
  • パスワード
  • 秘密
  • 管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:http://harukazenowarai.blog90.fc2.com/tb.php/459-75c80e7d