FC2ブログ
ラーラ・カルデッラのベストセラー「ズボンがはきたかったのに」を読み、その窮屈な時間のことを考えました。

「馬を見てごらん、元気よく、きびきびしているところなんか全然なくて、仕事の疲労がたまっている。動物たちは人間と同じで、人間たちは動物と同じにしている」

人は因習に囚われ、日々の生活は固く閉ざされ、心も体も疲れ果てているのでしょうが、そのことに気付いていない。

何ものにも囚われていない女の子の見る目は、違う。だから、男しかはけないズボンがはきたかったのですが、結局スカートしかはけませんでした。

今は、ズボンをはいているかもしれません。はいていないかもしれません。
それが、自由ということなのでしょう。
しかし、今でも人は疲れているように見えます。

何故でしょう。
みんな自由だと言っているけれど、ひょっとすると、自由ではないのかもしれません。
馬が人に繋がれているように、人も何ものかに繋がれているような気もします。

植物は、どうでしょう。
コンクリートの排水路に溜まった僅かな土に根を張り、葉を茂らせているものがあります。
アスファルトの道と商店入り口のコンクリの僅かな隙間に育ち、花を咲かせているものがあります。
重く固い土を持ち上げて、葉を伸ばそうとするものがあります。
森の木は、いつも輝いています。
コンクリの排水溝に生えた草 秩父の(閉店した?)商店街のユリ
固く重い土を持ち上げて伸びようとするジャガイモ 瞽女峠とキャンプ場の間の戸田の木
動物と違って動けないのだから、様々な制約があるように思われるけれど、そんなことを気に掛けているようには見えません。人が種を撒こうが自然と芽を出そうが、鳥に何百キロも運ばれて着土しようが、構いはしない。土があれば、どこだろうと芽を出し、葉を広げ、花を咲かせ、時が来れば静かに土に還る。制約はただの前提で、生きることは制約の中で命の限りを尽くすこと、なのでしょう。

制約を無理に超えようとしないが、囚われることもない。
それが、自由ということなのかもしれません。

ズボンがはきたくても、はけないことがある。空気読めよ。干されるぞ。
差別。いじめ。村八分。
行こうと思えばどこへでも行けるのに、人はなんと不自由なことか。
余計なことばかり追いかけて、齷齪している。
スポンサーサイト



コメント

コメントの投稿

  • URL
  • コメント
  • パスワード
  • 秘密
  • 管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURL:http://harukazenowarai.blog90.fc2.com/tb.php/467-7844cab3